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はじめは、兄に隠れた存在だったため、試合中継を見ていても、柱谷弟とよく呼ばれていましたが、

そんな柱谷哲二選手が、日本サッカー界、

初の外国人監督・オフト監督の元で日本代表のキャプテンを務めていたことに尊敬の念を持っています。

あの当時は、読売クラブ(現ベルディー)と日産(現マリノス)だけが脚光を浴びていた時期で、

日本代表に選ばれてくるメンバーも、この2チームから多く選出されていました。

今の代表選手を見ていると、チームを超えて仲の良い関係が良く見受けられますが、

あの当時は、代表合宿でも読売は読売、日産は日産で行動していて、完全に食事の時もテーブルを分けて食べている状態でした。

また、ブラジル帰化のラモス選手やブラジル帰りの2人が個のサッカーを主張するのに対し、

オフト監督はオランダ出身ですからトータルサッカーを目指し、

あくまで選手は11分の1というサッカーを貫き、様々な面で柱谷選手は大変だったと思います。

オフト監督のサッカーが徐々に選手に浸透していき、

初めて国際戦で優勝し、自分たちが強くなるのを感じながら、

選手たちもオフト監督について行けば強くなれると思い始めるものの、

オフト監督とラモス選手の確執問題は解決せず、

柱谷選手が6歳以上年上のラモス選手に「自分たちはオフトのサッカーについていく。無理なら代表を辞退してほしい」と迫り、

ラモス選手も柱谷選手の真摯さに負け、その後チームが一つにまとまっていき、ドーハへと繋がります。

闘将と言われ、今も歴代代表No1のキャプテンと言われる柱谷哲二選手は本当に凄いと思っています。

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