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外国籍選手の帰化の先人
忘れもしません1993年10月28日。アメリカW杯アジア最終予選の最終戦。場所はドーハでした。アメリカ行きの切符をかけてイラク代表と戦った日本代表は試合終了直前の失点で引き分けに終わりほぼ手中に収めていたアメリカ行きの切符が逃げてゆきW杯初出場を逃しました。今でも後世に語り継がれる「ドーハの悲劇」です。この中で最年長36歳で日本代表の一員として最後までピッチにいたのはほかならぬこのラモス瑠偉でした。
「日本をW杯に連れて行く」
ラモスは代表入りすると常々こう言っていました。日本代表がまだ見ぬ最高峰の舞台へ。誰よりも日本を愛し強い気持ちをもってピッチに立っていました。
「ルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョ」というのがブラジル人ラモスの名前でした。1977年に20歳で来日し読売サッカークラブに入団。読売クラブへの入団は、金を得るため。来日早々ホームシックにかかるなど若さをみせ、1978年の日産との試合でのトラブルで異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けることとなります。長い出場停止が解け、復帰後はその実力の片りんを見せ1979年は14得点7アシストを記録し日本リーグの得点王とアシスト王の二冠を獲得します。その後選手生命を脅かすような怪我もありましたが克服して復帰して活躍、1984年には日本人の初音さんと結婚、1989年には帰化して日本国籍を取得することになります。こうしてブラジル人ルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョは日本人ラモス瑠偉になります。この時日本のサッカー界は日本リーグのプロ化そしてW杯の初出場へ向けて動きはじめまていました。
ラモスはだれよりも日本の事を第一に思い愛していました。はじめて代表に招集されたときにこんなエビソードがあります。ラモスは渡されたユニフォームみてあきれ返ってしまいました。それは日の丸のエンブレムがどこにも入っていないことでした。それ以後代表のユニフォームは日の丸のエンブレムが復活しますが、このことはラモスの強い日本愛を伺うことができるエピソードといえます。
1993年に日本はプロサッカーリーグのJリーグが開幕し読売クラブからヴェルディ川崎になったチームでも中心選手の一人でいたのもラモスでした。この年日本代表もいよいよW杯に向けて予選を勝ち上がり最終予選へと駒を進めます。そしてドーハの悲劇を迎えます。
近年日本代表は1998年のW杯フランス大会から連続出場を続け日本サッカーはアジアでも強豪国のとなりました。しかしここまでに至る過程としてあのドーハの悲劇がありその時の選手は今では指導者として日本のサッカーを支えていたり、三浦知良選手に至ってはいまでも現役で活躍しています。そしてあの時の日本代表の中心にいたのは間違いなくラモス瑠偉でした。外国籍選手の帰化の先人として、現在は指導者として今後も日本のサッカーを支えて活躍してくれるのを期待せずにはいられません。